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治療体験談 肝臓がん

目次

発病から移植手術までの8年(生体肝移植 その1)
  • 毛屋嘉明/2010.9.13
生体肝移植。そしてドナーの心境(生体肝移植 その2)
  • 毛屋嘉明/2010.9.21
生き残れた理由と、術後(生体肝移植 その3)
  • 毛屋嘉明/2010.10.18
最近の心境と、伝えたいこと(生体肝移植 その4)
  • 毛屋嘉明/2010.11.12


発病から移植手術までの8年(生体肝移植 その1)
  • 毛屋嘉明/2010.9.13
Profile
1947年 福岡市に生まれる。
1969年 地元大学工学部卒業後、建設会社入社。各地の土木現場を経験。
本社、支店の管理部門、営業部門を経て2009年定年退社。
肝臓がんの患者歴15年の経験をもとに、患者会の体験談発表や講演会参加など活動継続中。

Clinical History
平成3年 会社の健診で肝機能障害を指摘される。
平成6年 C型肝炎ウイルス感染判明。九大病院でインターフェロン治療を受ける。
平成7年 肝細胞がん発病、第1回目の外科手術。
以来、平成14年の肝移植手術まであらゆる治療を繰り返す。その後社会復帰し、無事昨年(平成21年)会社を定年退職。現在は起業して新たな仕事を始め、また、「がん・バッテン・元気隊」事務局メンバーとしてボランティア活動にもいそしんでいる。

▲2010年9月、妻と、アメリカ、カナダを旅して

1.はじめに
平成14年、次男の肝臓を貰って「生体肝移植」を受けてから、8年が経過した。15年前肝臓がんが見つかり、移植を含めて10回の手術を受けた。C型肝炎ウイルスはまだ体内に残っているので、現在もインターフェロン治療中だ。がん治療の三本柱である手術療法・化学療法(抗がん剤治療)・放射線療法のすべての療法を体験してきた。私が生きていること自体が、がん患者仲間に向けての元気づけのメッセージになることを信じて、日々与えられた命をいたわりつつ過ごしている。

これまで、自分のがんについて出来る限りの情報を集め、適切な判断が出来るように勉強を重ねてきた。いろんな「がん講習会」にも参加した。患者会においても自分の今までの体験談を述べあうことがいかに大事で、心を癒されるかを知った。

医学は日進月歩で進んでおり、私の体験談などはもう昔の話になったかも知れない。しかし一番苦しかった時にどのように考え、乗り越えてきたかの体験談は、これから新たに「がん闘病生活」を始める人の役に立つものと信じている。これからもがんについて新しい様々なことを学び、将来訪れるであろう「がん死」に対しても、正しい知識で立ち向って行きたい。

この体験談は3回に分けて掲載する予定で、第1回目は肝臓がんの発症から生体肝移植に至る7年間の経過。第2回目は生体肝移植手術後の経過とドナーとなった次男の感想文を、第3回目はその健康を取り戻してから現在行っている活動と今までを振り返って強く感じていることを述べてみたい。

2.闘病経過 ~発病まで~
平成3年、会社の定期健康診断で肝機能障害の指摘を受けた。GOP、GPT、が正常値の2倍になっていた。その当時は、適切な治療方法はなく、「無理な運動を避けなるべく安静にしておくように」と言われるだけだった。
平成6年、九大病院の肝臓の専門医で高校同級生のI先生を頼り相談した。C型肝炎ウイルスの検査をしたら陽性だった。
その後9月に九大病院に入院し2ヶ月連続のインターフェロン治療を受けた。
平成6年当時、C型肝炎ウイルスの治療法としてやっとインターフェロン治の健康保険適用が認められたばかりだった。C型肝炎ウイルスは、日本では3タイプあり、私の場合は難治群に分類され5%しか治らない1b型だったため効果は表れなかった。(今はインターフェロンも研究が進み、後で述べるがリパビリンとの併用療法で60%の人の肝炎ウイルスが消滅している)
果たしてその1年後、平成7年には肝細胞がんが見つかり九大に入院し外科手術を受けた。

~3回の外科手術~
第1回目手術は、九大で2例目といわれる腹腔鏡下における肝臓の一部切除手術だった。九大でも新しい腹腔鏡手術で、見学者も多く、長時間の19時間にも及ぶ大手術となった。しかし、長時間だったためか肺にたんが溜まり肺炎を起こしかけていた。痰吸引と背中を叩いて痰を出す試みが一日続いた。麻酔から覚める時、脳が溶けていく夢を見た。暴れたらしく看護婦さんの腕をかきむしっていた。

第2回手術は、その2年後平成9年に行ったマイクロ波凝固法だった。これは右わき腹から腹中央まであばら骨を切り広げ、肝臓を直接目視でエコーを当てながらマイクロターゼと言う放射線で焼ききる手術だった。 第3回目も同じく外科による肝臓一部切除で平成11年3月に行ったが、肝臓の後ろにある癌は取り除けず、後日別の方法で処理することになった。

このように原発性の肝臓ガンは再発が宿命的なもので、もぐらたたきのように再発したがん細胞をそのつど叩くしかなかった。そのときから癌細胞と私の体力(免疫力)との戦いが始まった。
再発を遅らせるためにいろんなサプリメントを人から勧められるままに飲んでみた。パイロゲン、プロポリス、SOD様粉末剤ニワナ、アガリクス、AHCC、FMX、などに、毎月4万から8万円ほど掛けたが効果はなく再発を繰り返した。癒着がひどくなり、もはや外科手術は不可能となった。

~肝動脈塞栓術を4回行う~
その後平成11年9月から平成14年3月まで半年から1年おきに4回入院、「肝動脈塞栓手術」を行った。
「肝動脈塞栓術」は足の付け根の動脈からカテーテルといわれる細い管を肝臓の患部に挿入し、そこに抗がん剤を注入した後、血管にジェリー状の詰め物をして、がん細胞を壊死させる方法である。これは放射線科で血管造影のもと内科医立会で行われた。
患者の肉体的負担は少ないものの完全に除去できないという難点がある。また同時に3~6個までの癌しか治療できないためまた再発しやすい。

入院し肝動脈塞栓手術を受けるピッチが早くなり、だんだん1回の治療個所数も6か所と多くなってきた。今後は入院し抗がん剤を常時注入しなければならないといわれた。
それまでは医者の勧めるままに手術を受けてきた。しかし自分の体は自分で守らないといけないと、いろんな資料を集めて調べた。
内科入院中に、以前講演会で聞いていた「生体肝移植」の現状や自分への適用可能性について、以前手術してもらった外科医を訪ね質問した。条件は厳しかったものの、私にも可能性があることがわかった。

余命は半年から一年と宣告され、もう「生体肝移植」以外助かる道はないと思い定めて家族に相談した。家族は皆手術に賛成してくれた。

56歳になっていた私は、まだやり残したことがある思いがして手術に挑戦することにした。しかし、病院内の倫理委員会で「副腎への転移の疑いがある」との事で、移植手術は一旦却下され、条件として放射線科による「ラジオ波焼灼療法」の手術を受けることとなった。

そうしている内にも病状は日に日に悪化。腹水が溜まりだし白血球も低下してきたので緊急入院した。応急の抗がん剤治療を始めるとともに面会謝絶の個室で治療を受けながら移植の受けられる日を3カ月待った。

やっと病院の倫理委員会の許可が下り、腹を開けて状況が悪ければ即時に中止するという条件で、9月12日に手術が決まった。

生体肝移植。そしてドナーの心境(生体肝移植 その2)
  • 毛屋嘉明/2010.9.21
いよいよ生体肝移植手術
「おや、今、僕はどこにいるんだろう。ここは天国か?」

麻酔から醒め、一瞬何処にいるか判らなかった。目をつぶると麻酔のためか、極彩色の曼荼羅模様が次から次へ頭の中いっぱいを駆け巡り、これが天国ではないかと思うばかりの夢を見た。ゆっくり周りを見渡すと、10数本の管が腹の中に入り、いろんな機器がベットを取り囲み、忙しく動いている。私は身動きも出来ず、天井の一部を見つめているばかりだった。

これが26時間に及ぶ『生体肝移植手術』からの集中治療室(ICU)での目覚めであった。しかしこれが今まで7年間続けてきた肝臓がんとの闘いの一応の区切りであり、次に続く厳しい生死を彷徨う闘いの始まりであった。

集中治療室では順調に回復し外科病棟の観察室を経て10日間で個室に移動できた。
個室では相変わらず機器に囲まれ管も多数ついたままだったが、家族と自由に会え、話せるようになったことが第一に力付けられた。 長い手術の間、暗い待合室で不安を抱えて堪えて待っていた家族の話を聞いた。
その家族のためにも絶対生き抜いていこうと決意を新たにした。

別の部屋にはドナーとなった次男が腹を大きく切り、「痛い、痛い」と想像以上の苦痛に呻いていた。 私の生体肝移植の話を聞いて、急遽名古屋の勤務地から駆けつけてくれた次男は、自分の出来ることは何でもして、父の命を助けたいとドナーになることを快く申し出てくれたと思う。

家内は2つの病室を行き来して、世話に忙殺されていたが、手術がうまく行き安心していた。
個室に入って3日目の夜、感染症を発症し、熱が40度を超え丸1日下らなかった為、解熱用の座薬を処方してもらった。熱は下ったものの同時に血圧が下り始め、50~70になった。急いで血圧を上げ血流を良くする為にベッドの足側を高く上げ、心臓に血を集める処置がなされた。しかし改善されず危篤状態になったため、夜中に急遽集中治療室に戻され24時間の監視状態に戻された。

先生が入れ替わりやって来て、肝臓への血流を測っていたが測る時間が長くなり、首をかしげることが多くなった。意識朦朧の中ではあったが、様子が少しずつ判ってきた。



▲わたしの全摘出された肝臓

「血流が悪くなり肝臓が壊死しかかっていた。」
次男としても、移植を決めてから4ヶ月節制して若い健全な肝臓を提供しようと努力したものが無になろうとしており、「俺の肝臓は無駄になるのか」とガックリしていた。

担当医たちは、家族を集めて状況を説明し、最悪の場合再手術をしたいと同意を求めてきた。担当医としても一度手術をした患者は何とか助けたいとあらゆる手段を考えるのであろう、本人の意思や経済状態に関係なく提案してくる。

その当時、生体肝移植手術は保険がきかず、すべて自己負担で1300万円は掛かると言われていた。それを2回したとなると今考えただけでもゾッとする。私を助けるためにみんな同意してくれたのかと思う。「私にそれだけの生きる価値があっただろうか」と思うと居た堪れなくなって来る。

その当時私は意識網朧で判断能力はなく後で聞いたことであるが、長男が肝臓を提供することに同意し、「再度の生体肝移植」の準備がなされた。長男は術前の諸検査を終え、いつでも掛かれるようにスタンバイしていた。今思えば体力が衰えた段階で再手術を行ったとしても、生還は難しかったと思われる。

その時点で担当助教授の発案で高圧酸素吸入療法が初めて試みられた。九大病院にはまだその設備がなかったため、集中治療室からストレッチャーのまま酸素ボンベ、点滴ビンをいくつもぶら下げたまま、救急車で近くの八木病院へ運ばれた。

2気圧の高圧酸素室に2時間入り、肝臓への酸素血流回復を図った。その後20日間毎日救急車で往復し、徐々に血流が改善したため再手術は日延べとなり最終的には中止となった。また個室に戻ってからは、経過を刻々注意しておく必要があったため、個室に家内が簡易ベットを持ち込み寝泊りして24時間介護についてくれた。

家内は他の病室の患者や家族からいろんな情報を仕入れ、有効だと思われることは何でもやってくれた。2ヶ月間、一日中一緒にいていろんな話が出来たのは結婚以来初めてであり、改めて家内の有難さを知った。

危機を脱した後は順調に回復。3ヵ月後には一度退院し正月を家で過ごすことが出来た。
家で家族が一同に会して過ごした正月ほど生きている喜びを感じた事はなかった。
その間のみんなの苦労話を聞いて家族の無償の愛に改めて涙した。

『生きているだけで良かった!』、 『生きていればこそ、何時かみんなに恩返しが出来る!』 『これからみんなに感謝しながら生きていこう!』とつくづく思った。

体力の回復を待って、翌1月から再入院し手術後の抗がん剤治療を行った。2クール(2週間)行った段階で白血球が下り、それ以上の継続は無理となった。3月はじめ退院し、4月から会社勤務に復帰できた。

会社では手術費用の足しにとカンパしてくれ、9ヶ月ぶりの出勤を皆が暖かく迎えてくれた。これが精神的にも経済的にも大きな支えになった。

思い返してみると、平成5年の肝機能障害に続く、C型肝炎ウイルスの検出以来闘病生活の連続であった。

生体肝移植を体験してみて、そう簡単ではないと思った。
私はたまたまうまくいったが移植を受けたものの亡くなった人たちもいた。未婚の娘さんから肝臓を移植してもらったが、胆管が詰まり感染症を起こして1年で亡くなったYさん。

移植後一時は元気になっていたが感染症で1年足らずで亡くなったF氏、鹿児島から来て手術を受けたが、手遅れでその後すぐ腹部ほかに転移し、1年して静かになくなったT氏。いろいろやり残したこともあり、さぞ無念であったろう。今後の医学の進歩に期待したい。

必ずしもこうやればよいということではない。「家族なら臓器を提供すべきだ。」という考えが安易に広がってはいけないと思う。出来れば理想は「脳死肝移植」であるべきだ。しかし日本ではまだ実施例が少ない。

最近は「脳死法」の改正で家族の承諾による脳死移植の例が出てきている。これが今後さらに増えていくことも期待している。また移植にかかる費用も自己負担額が大きく、家族に迷惑がかかることもあり実際にやってみると、後で大変なことだと思った。現在は基準は厳しいものの医療保険が「生体肝移植」にも適用されるようになり、医療費も半分くらいに安くなっているようだ。

以下はドナーとなった次男が書いた文章である。

次男は私の闘病中は高校3年生であったが、自分から進んで学費の掛らない自衛隊の航空学生を選んでくれたと思う。また、移植手術しか助かる道はないと知った時は名古屋の基地から自分の貯めていた貯金を持って駆けつけ、肝臓の提供を申し出てくれた。

これは自衛隊内の英語の弁論大会で賞を取った時の原稿を翻訳したもの。

「痛みを知ってわかったこと」 毛屋善晴 (平成15年6月)

私は去年の9月に私の人生観をも変えるようなとても貴重な体験をしたのでそれについてお話したいと思います。 その体験とは最近ニュース等でよく耳にする、生きている人から人へ肝臓を提供するという「生体肝移植」のドナーとなった体験のことです。

父がC型肝炎だと分かったのは9年前でした。その後、父の肝臓の機能がだんだん悪くなり、肝硬変になり、そして肝臓ガンを発見しては手術をして取り除くという入退院の連続でした。

初めて肝臓ガンを発見されたときに、父本人も含めて私たち家族に医者から余命が5年位だと通告されました。その時の父や私たち家族のショックは大変なものでした。

その後、民間療法などを含むあらゆる手を尽くしながら、1年ごとに8度の手術を受けましたがその甲斐もなく、今回助かる最後の手段として生体肝移植を受けることになりました。

私たちが受けた生体肝移植は、九州大学病院で94例目でした。病院側の厳しい倫理委員会の承認と事前のドナー本人の同意確認があって初めて手術可能という厳しいものでした。

幸いにもドナーである私の肝臓は父の肝臓と適合率もよく大きさや機能的にも問題がなく、何とか手術することが出来ました。 しかし、従来の治療法では1年しか生きられないという状況だとはいえ、成功率80%、残りは失敗により死の可能性のある中での父の決断は大変なものだったと思います。私自身も、上司には手術を受けることで管制官としてはもちろん自衛隊員としても、続けられなくなるかもしれない等の忠告を受けました。 しかし自分の父の命すら助けられない人が自衛隊員として、はたして任務を全うすることが出来るでしょうか?私は出来るはずもないと考え、移植に決意しました。

また、私は父が助かるためなら自分が術後どうなってもかまわないという、助けてあげたい気持ちで一杯でした。

当初私が想像していたよりも実際の手術や術後の生活は遥かに痛くて辛いものでありましたが、自分のお腹を切ってみて初めて今まで父が受けてきた手術や入院生活を含む様様な苦しみや心情を知ることが出来ました。

手術が近づくにつれて増していく不安、今まで生きてきた自分の人生を振り返るなど運命共同体である父とは、今までにない位たくさんのことを話し合いました。同じ手術で亡くなっていく隣人を見て不安になったこともありました。

ほぼ死の危険のない私でも、不安があるのだから5人のうち1人は手術が失敗に終わり死の危険性のあるという父にしてみれば、大変な不安などがあったとおもいます。

無事に手術が成功し、初めて父と対面した集中治療室で何も言わず、ただ力なく握るその手のぬくもりを感じた時に、本当に手術をして良かったと心から感じました。お互いに言葉はありませんでしたが、父の気持ちが自然と心に伝わってきました。

術後、私は傷が痛くて眠れない夜が続き、あまりの辛さに夜中一人で泣いた夜もありました。しかし父がどんなに辛くても決して子供に弱みを見せず、いつも気丈に振舞っている姿には父としての強さを知らされ、改めて尊敬の念を持ちました。

最近の医学の目覚しい進歩などにより今回、生体肝移植の手術を受け父は死の危険を乗り越えることができました。このことから私は何よりも人と人との繋がりのなかで生きているのだと感じました。患者のことを真剣に考え手助けしてくれる医療スタッフ、優しく看護してくれる看護士や患者の状態や健康を考え食事を用意する栄養士等も、家族や患者と共に戦ってくれているのだということを知りました。

私のお腹には大きな約80針にも及ぶ「人」という字に似た傷があります。この傷のことを将来自分の息子に自慢できるような父親になりたいと思います。そして、この傷こそ患者や家族、医療スタッフ等との支えにより出来た人としての誇りの証だと心から感じました。

今回痛みを知りて分かりうること、それはなにより不撓不屈の精神で戦い続ける父の偉大さや、人は必ず誰かに支えられて生きているのだということを実感出来たことではないでしょうか。今改めてそう感じる次第であります。

今後も、苦しい事、辛いことがたくさんあると思いますが、今でも病気と闘い続けている父に負けないように私も自衛官として頑張っていきたいと思います。

また、父も私も今後の人生を悔いの無いように大切に生きたいと思います。

生き残れた理由と、術後(生体肝移植 その3)
  • 毛屋嘉明/2010.10.18
手術後
移植は成功したものの、私の血液中にはまだC型肝炎ウイルスが残っているため、6年間インターフェロン治療を継続した。幸い、今は消滅したので中断している。

退職後は新たに個人事業者として小さな会社を興し、それを一つの生きがい・収入源としている。手術後は毎年治療費の支払いが100万円ほどかかっていた。
免疫抑制剤は死ぬまで飲み続けなければならず、その薬だけでも1月5万円ほど掛る。しかし、今年4月から生体肝移植の更生医療費の補助金制度ができて、一月の限度額1万円で済むようになった。がん治療費が掛らなくなって助かっている。また、1級の身体障害者手帳も交付されるようになった。

私はがんになって「なんで私だけが・・・」と思った事もあったが、今はかえって「がんになって良かった」と思えるようになった。
家内とはいつも「これが最後になるかもしれない。元気なうちに行こう」と暇を見つけては、国内、海外旅行によく出かける。

今年は5月にチベットの九賽溝・黄龍に行った。海抜3,500m~4,000mの高地を5時間歩けた時は取り戻した健康を実感した。高山植物のケシの花もきれいだった。

▲九賽溝(きゅうさいこう)臥龍海(がりゅうかい) 標高2,125m


▲黄龍(こうりゅう)五彩池(ごさいち) 標高3,556m


▲海抜4,000mの高地にて高山植物のケシの花

生きていればこそ
7月には同年退職した友人と石垣島にスキューバダイビングに行きマンタを見た。このスキューバは闘病中に健康のためにと息子と始めたものだが今も続いている。

▲移植後8年。お陰様でスキューバダイビングを楽しめるほど元気に。(2010年7月石垣島にて)

9月には家内とカナディアンロッキー、ラスベガス、グランドキャニオン、ナイアガラの三大絶景を回るツアーに参加した。これも生きていればこそ出来たことである。

▲アンテロープ・キャニオン

闘病中にふと公民館から流れてくる声に誘われて入った「謡曲」。これは10年以上たつ今も続けている趣味である。腹式呼吸で腹の底からから大きな声を出すので、健康維持に役立っている。また退職後に謡曲仲間から進められて始めた「太極拳」も同じ腹式呼吸でストレッチ・バランス・筋トレの3つのトレーニングが取り入れられているため、これから年を取っていく私にとって大切な運動であり長く続けたいと思っている。

3.私が生き残れた大きな理由
その第1は、早期発見できたことであろう。私の場合は高校の友人に肝臓の専門医がいて、インターフェロンの段階から早く相談できたことがよかったと思う。誰でも早期にがん検診を受け、早期発見・早期治療が出来ることを願っている。 また、早期がんの為、すぐにがん告知を受け患者としての自覚が出来た。
第2は、内科専門医が私の病状に応じ外科、放射線科と相談して、最適の治療法を提案しチーム医療が出来たこと。いまではそれが常識となっているが、10年前はまだ縦割りがはっきりしていたのではないかと思う。
第3には、最後まであきらめなかったこと 。
私は、10年間の闘病中、対症療法ではあってもその時の最新の治療方法を選択していれば、医学の進歩の方が追い付き何とか生き残れるとの信念を持ち続けた。

西洋医学に反対して民間の代替療法にばかり走り大切な時間を過ごす人もいる。
私の場合は、先端医療の進歩により命を助けられた。その進歩がなかったらもうすでにこの世にはいなかっただろう。自分に合った情報を求めて自分なりに納得いくまで勉強した。前に書いたがサプリメントも人に勧められるまま、いろいろ買って試したが効かなかった。

その資金は次のどうしても必要となる医療費に残しておいた方が良かったと思っている。

最近の心境と、伝えたいこと(生体肝移植 その4)
  • 毛屋嘉明/2010.11.12
4.感謝」に満たされて
一段落した段階で、今の自分の心境をゆっくり考えてみた。 それは「感謝」の一言に尽きると思う。その感謝の主な3つを上げると以下のようになる。

(1) 家族への感謝
一家の大黒柱が40代でがんを発病することによる家族の苦労は並大抵ではないと思う。
特に妻には10年間の闘病中、大変苦労をかけた。いまでも気が休まらないと思う。
長男は私の闘病中一家の支えとして家族をまとめ上げてくれた。生体肝移植の時は長男も次男も肝臓の提供を申し出てくれたが、私はどちらとも決めかね両方とも検査し、医者に判断してもらい数値的に適合する方を選んだ経緯がある。
長女は生まれたばかりの双子の子供を抱え、千羽鶴を折ってよく見舞いに来てくれた。家族に「ありがとう」とまず感謝したい。


(2) 取り戻した「健康」への感謝
闘病中は入退院の繰り返しで、がん再発の恐怖におびえる毎日であった。
いつまで続くか判らない、治るあてのない時が、一番精神的に苦痛であった。再発を宣言された時に「もう一度頑張ろう」と気力をまた奮い起こすのに大きな努力がいった。諦めかけた時もあった。
入退院を経験した人にしか解らないと思うが、この取り戻した自由に歩き回れる健康こそ有難いものだ。

(3) 私を助けてくれた友人、知人、会社、医療従事者に感謝
がん治療にはお金がかかる。
通算すればそれで家が一軒建つぐらいの治療費が掛ったが、皆のお陰でその一部をカンパしてもらった。また会社も首にならず定年まで勤められたことがどれだけ経済的にも精神的にも助かったか判らない。
また医療関係者の方々も私を見捨てず、最後まであらゆる手段を尽くして治療してくれた。改めてみんなと医学の進歩に感謝する。

これらを通じて、私は「神の存在」を信じるようになった。
私はもともと宗教心のない人間だが、最近は何か言い表せない「神」によって支えられて、ぎりぎりのところで生き延びることが出来たのだと感じる。

5.患者ボランティア活動を続けてきて感じたこと。
助かった命を何かに役立てようと、退院してすぐ患者会に入り、ボランティア活動を始めた。 患者会の体験懇談会などを通じて、いま患者の求めているものが少しわかってきた。 それは、自分のがんに対する情報である。
がん患者がいま本当に知りたい情報は次のようなことではないかと思う。
  1. 自分の病気はどの病院のどの先生に診てもらえばいいか。
  2. 自分の病気には新しい治療方法はいま何があるか。他の人はどのようなことをしているか。
  3. 医者に見放されても、何か生きる希望が持てるような情報はないか。
  4. 再発を繰り返した時、他の人はどのようにしてそれを乗り越えてきたか。
  5. 厳しい状況になった時、「緩和ケア」、「心のケア」どう考え、どう実行しているのか。
  6. その時家族はどのように支えたらいいのか。
がん・バッテン・元気隊で
我々患者は、自分の体験談は話せても今の最先端の医療の進歩については良く判らない。そのため、まず患者の出来ることはよく話し合える体験談の場を多くすることであろう。また、市民公開講座などに参加し、自分の知りたい情報は積極的に取りに行くことが必要だろう。

福岡にも、このようなホームページが出来て、広い範囲の情報が提供できるようになった。この活動を広く周知し、皆で活用できるようになれば素晴らしい。
しかし、お年寄りの患者は、インターネットを使いこなせない人も多い。
若い身内の人にインターネットを開いてもらい、一緒に自分に合った情報を引き出してもらうようにすればコミュニケーションも図れるだろう。

私は「がん・バッテン・元気隊」の発足当初から参画しどんたくパレードに出場した。 最初はまだ恥ずかしく顔を上げて沿道を見る勇気がなかったが、沿道の「がんばって!」の温かい声援に励まされ、最後は笑顔で手を振って応えることが出来た。

今年で3年、妻と連続出場している。今後も「がん・バッテン・元気隊」の事務局としての活動を出来る限り元気で続けていきたい。(完)
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