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甲状腺がん 治療体験談

目次

再発したのは、なんと20年後の53歳(闘病記1)
  • 波多江伸子/2010.1.5
小さなささやき声しか出せず(闘病記2)
  • 波多江伸子/2010.11.5
再発したのは、なんと20年後の53歳(闘病記1)
  • 波多江伸子/2010.1.5

Profile

「がん・バッテン・元気隊」代表・作家。医療倫
理学研究者。
1948年、福岡市生まれ。団塊の世代です。
長い患者ライフとピアサポート体験を生かして、患者の立場に立った医療倫理学を専門に、大学医学部や看護学科、市民講座などで講義や講演をしています。
家族は、夫と息子と犬と猫。

Clinical History

最初の甲状腺がんは33歳。
再発したのは、なんと20年後の53歳でした。
糖尿病患者でもあり、1日4回のインスリン注射が欠かせません。内分泌系が弱い体質なんでしょうね。


甲状腺ってどんな器官?
甲状腺は首の前面、つばを飲み込むと上下に大きく動く部分にあり、蝶が羽を広げたような形をしています。 男性は、女性より位置が低くて、喉仏の下あたり。

甲状腺は、新陳代謝や心臓の脈拍、腸の運動などを調節する大切な内分泌器官です。脳下垂体からの指令で甲状腺ホルモンを生産する工場の役割を担っています。性ホルモンと違って一生必要なホルモンですから、手術で全摘すると、甲状腺ホルモン剤を生涯飲み続けなくてはなりません。
私も、「チラージン」という薬を、もう30年以上飲んでいます。最初は、薬を飲み続けることに抵抗がありましたが、慣れてくると食後の歯磨きより簡単。
この薬には幸い、副作用はありません。

甲状腺ホルモンが過剰になると、心臓はドキドキ、体温は上昇して汗ぐっしょり、いつも全力疾走しているような状態になります。
いくら食べてもやせていて、なんだかイライラせかせかした感じ。眼球が突出して独特の目つきになったりします。 昔は「バセドー氏病」と呼ばれていました。今は「バセドウ病」。
機能低下すると、むくんで、頭も働かずぼんやりしてきます。脈は遅くなり、動きも鈍くなって疲れやすくなります。橋本病は自己免疫疾患で、甲状腺炎を起こし機能低下症になります。
橋本病も含めて甲状腺の病気は、圧倒的に女性に多いのが特徴です。乳がん検診と一緒に甲状腺検診もできたらいいですね。

甲状腺がんもいろいろ
甲状腺がんは甲状腺にしこりができる以外には、特に機能に特徴的な変化はありません。サイログロブリンという腫瘍マーカーもありますが、良性の腫瘍でも上昇するので決定的な検査ではありません。
ちなみに、うちの夫も数年前、巨大な甲状腺腫瘍ができて甲状腺を全摘しました。夫の場合は良性でしたが、腫瘍マーカーが桁違いに上昇していました。
結局、良性でも全摘すれば、ホルモン補充療法をしなくてはなりません。夫婦で仲良く、甲状腺ホルモン剤を一生飲むことになりました。

甲状腺の悪性腫瘍には「乳頭がん」「濾胞(ろほう)がん」、「髄様(ずい)がん」「低分化がん」「未分化がん」「悪性リンパ腫」など幾つかのタイプがあり、どのタイプのがんかによって治療も予後も、患者としての心構えも変わりますので、まず自分のがんの細胞型を医師から教えてもらいましょう。(最近は、細胞検査士からも詳細が教えてもらえるようになっています)。


乳頭がんと濾胞がん
日本人がかかる甲状腺がんの90%近くが「乳頭がん」と呼ばれる、進行の遅いおとなしいがんです。 甲状腺がんでは5年生存は当たり前なので、予後は10年生存率で表します。遠隔転移を起こしていない乳頭がんの10年生存率は92%です。もしかして95%かも。
要するに、死なないがんの代表格です。

「濾胞がん」も、同様におとなしいタイプですが、乳頭がんが局所のリンパ節転移を起こしやすいのに対して、「濾泡がん」は血流に乗って肺や骨に転移しやすいようです。「濾胞がん」は、一見したところ良性腫瘍と区別がつかず、細胞診でもまだはっきりせず、手術で摘出して細胞検査をして初めて悪性と分かる、まぎらわしいがんです。

「濾胞がん」は甲状腺がんの5%くらい。遠隔転移していなければ乳頭がんと同じくらいの生存率です。転移するとちょっと低くなるかな?でも、乳頭がんや濾胞がんは遠隔転移しても、やっぱりゆっくり進行しますし、放射性ヨードを内服する内照射療法がよく効きますからそんなに心配はありません。
もう10年以上、年中行事のように毎年入院して肺転移の治療をし、普段はまったくお元気な濾泡がんの患者さんを知っています。

家族性の甲状腺がん 「髄様がん」は、家族性(遺伝性)と、そうでない散発性の2種類があって、家族性の方が治りやすいようです。血中にカルシトニンというホルモンが出るので濃度を測定し、遺伝子検査をすればはっきり分かります。
髄様がんは、研究が進んだがんなので、家族性であれば、遺伝相談をお勧めします。遺伝相談をどこで受けられるかは、甲状腺疾患の専門病院にかかって、確認してください。どこでも受けられるわけではありません。

「乳頭がん」は遺伝しないと思われているようですが、実は家族性のものもあるんですよ。
私の父も甲状腺がんでした。父の方が後になって見つかり、私より進行していました。それで7~8年後に再発してリンパ節が梅の実くらいに腫れていましたが、「ワイシャツの襟に当たって邪魔だなぁ」と言う以外には、肺転移を起こすこともなく、82歳で天寿を全うしたときは前立腺がんが死因でした。
わが家の甲状腺乳頭がん患者はまだ2人なので、遺伝性かどうかは分かりませんが(3人出れば90%の確率で家族性だとか)、80年以上も続く甲状腺疾患の専門病院には、「うちは親代々甲状腺乳頭がんでして・・」という患者さんもおられますよ。


「未分化がん」のこと
まれにですが、甲状腺にも「未分化がん」という極めてタチの悪いがん細胞が発生します。これは身体にできるあらゆるがんの中で、最も悪性度が高いがんと言われています。
ヨード摂取量の少ない欧米人に多く、幸い、海藻などを常食する日本人には少ないのですが、不運にも罹患する方は高齢者に多く、それまで持っていた乳頭がんが、長い年月を経て未分化がんに転化するケースが半分くらいあるそうです。女性に多い甲状腺疾患ですが、この未分化がんに限っては男性も同じくらいの頻度で発生します。未分化がんの進行は早くどんな治療にも反応しない厄介ながんです。

発生頻度は甲状腺がんの1%~3%と言われています。若い人のがんは進行が早いのでは?と心配される親御さんがありますが(私の親や夫も当時、それを心配していました)、甲状腺がんに関しては、若い方がむしろ安心なのです。
でも、まれに乳頭がんの中に低分化の細胞が混じっていることがあり、これはちょっと心配です。手術後、がんを薄切りにして調べるので、低分化細胞が混じっているかどうかは分かるみたいです。被爆者の方で、このタイプの乳頭がんの患者さんを知っています。

甲状腺にできる悪性リンパ腫(治癒率80%くらい)は、橋本病から出てくることがあるとのことですので、とにかく甲状腺の病気は専門医に治療してもらうことをお勧めします。そして、昔なじみの知り合いのように、病気とつかず離れず、仲良くしていってください。

さて、下の顕微鏡写真は、「医療電子教科書MyMed」の「甲状腺癌」の項目から借用した甲状腺乳頭がんの細胞です。 ひとつひとつの細胞に目玉のような核が封入されているのが分かります。形がおっぱいに似ているからでしょうか、乳頭がんと呼ばれています。
がんとは言っても分化度の高い(つまり、正常細胞に近い)がん細胞です。ちなみに、私が再発した時は、別府の甲状腺専門病院で手術をしたのですが、これと同じ形の私自身のがん細胞を見せてもらい、退院の時、プレパラートに挟んだ標本をお土産にもらって帰りました。

▲甲状腺乳頭がんの細胞像

人的な体験記というより、甲状腺がんのざっくりした基礎知識を書いてみました。

でも、私は、医師でも細胞検査士でも看護師でもなく、患者ですから、記述に正確さを欠くところがあるかもしれません。
専門家の方々に、間違いの箇所や不明な部分をご指摘いただけるとありがたいです。

小さなささやき声しか出せず(闘病記2)
  • 波多江伸子/2010.11.5
声が出ない苦しみを乗り越えて ~反回神経マヒ~
声帯の動きをコントロールする反回神経は甲状腺のすぐ裏側を通っているので、がんのできた場所によっては、手術で反回神経を傷つけることもあります。
反回神経は左右一対あり、両側から声帯を閉じたり開いたりして声を出します。

私の場合は、転移したリンパ節が反回神経を巻き込んでいたので、切断しなくてはがんが取り切れない状況だったのです。30年前は、術前の詳しい説明などなく、「開けてみないと分からない」ということで、麻酔が覚めて初めて私は自分の声が出なくなっていることに気付いたのです。

初めは、一時的な後遺症で、そのうちに回復するのだろうと軽く考えていましたが、どうやら切れた神経は一生つながらないらしいと分かったときは、ショックでした。
左側の神経が切れたので声帯の左側にすき間ができてしまいました。ちょうど壊れた笛を吹く時のように息が漏れるのです。

小さなささやき声しか出せず、3年間、買い物にも人づきあいにも苦労しました。子どもに子守唄を歌ってやることも、絵本を読んであげることもできませんでした。
バスの運転手さんのような、マイク付きの帽子があればいいのにと思ったりしていました。

主治医から、このままだと不自由だろうからとリハビリの手術をしますか?と勧められました。でも、若かったこともあり、呼吸法や自己流の発声トレーニングを重ねるうちに、反対側の反回神経が代償的に働くようになり、徐々に仕事にも復帰できるようになりました。
手術から30年経った今では、マイクを使えば長時間の講義や講演もまったく平気です。

▲子どもの1歳の誕生日。
声が出なくていちばん苦しかった頃です(1982年5月29日)

再発時
それから20年後、2001年に再発した時は、すでにインフォームドコンセントの時代になっていましたから、手術で起こりうるリスクを、術前にいろいろ聞かされて怖くなりました。
すでに左の神経マヒがあるので、もし今度の手術で右の反回神経マヒを起こすと両側マヒになり、気管切開をして人工呼吸器をつけることもありうると聞いた時には、「では、取りやめて帰ります」と言いそうになりました。

手術前、執刀医に「もし声が出なくなりそうだったら、がんが取り切れなくても構いませんから手術を中止してください」としつこく頼みました。
手術のリスクは、起こる確率が高いものからまずあり得ないようなものまでさまざまです。医療者側としては後で文句を言われても困るので、可能性がちょっとでもありそうなことはあらかじめ患者に伝

患者側としては、そのリスクがどのくらいの確率で発現するのか、これまでにそういう例がどのくらいあったかを聞いてみたらどうでしょうか。

ところで、私の場合、どうしたわけか、2度目の手術後、かえって声が出やすくなったような気がします。
再発時の手術は、甲状腺専門病院、別府・野口病院で受けました。

▲手術前日。若い医師からのリスク説明。術前一か月間、徹底した血糖コントロールでげっそり痩せた私。

父の声帯固定術
さて、話は前後しますが、私の最初の手術後5年経って、実家の父にも甲状腺がんが見つかりました。ずいぶん大きな癌腫でした。首のリンパ節への転移はたくさんありましたが、幸い、がんとしてはタチの良い「乳頭がん」なので、肺までは飛び火していませんでした。
私の甲状腺がん手術をしてくださった外科医に執刀を頼みました。「あなたの手術の時、お父さんの首も検査しておいたらよかったね。あの頃からあったはずだから」と残念そうに言われました。

前回も書きましたが、数種類ある甲状腺がんの中で、「髄様がん」は家族性の要素が強いのですが、「乳頭がん」は遺伝的な要素はないと言われてきたものです。
最近では家族性の乳頭がんも2~5%あるとされています。まだ遺伝子は確定されていないようですが、血縁に何人も甲状腺がん患者がいるようなお家は一度甲状腺の検査をされることをお勧めします。

父は、術後、私よりもっとひどい「嗄声(させい)」に悩まされました。喘ぐように喋るので、聞いている方が息苦しくなるほどでした。

父が75歳の時、母が膵臓がんで亡くなり、しばらくは気落ちして何をする気力もなかったようですが、一人暮らしに慣れるにつれ、また以前のように映画や美術展などを楽しめるようになりました。児童教育の専門家だった父は、ある幼稚園から園長就任を頼まれて高齢ながら社会復帰することになりました。
 声帯固定術を受けようという気になったのは、仕事で声が必要となったからです。園児たちと話をするためのリハビリ手術でした。

声帯修復手術で有名だった久留米大学耳鼻咽喉科に数日入院し、声帯のすきまに外からシリコンを注入する手術を受けました(現在はシリコンではなく自分の脂肪を注入するとか)。その折、顎に小梅くらいのリンパ節転移が見つかりました。 「切除しますか?」と教授に言われて、父は「取らないとどうなりますか?」と聞き返しました。
「まあ、放っておいても82歳くらいまでは大丈夫でしょう」という答えに、早く家に帰りたかった父は、「では、このままで結構です」と言いました。
声帯固定術をしても声は元のようにはなりませんでしたが、息切れや誤嚥がなくなり、それだけでもうんと楽になったようです。

81歳で父は前立腺がんになり、骨転移を起こして82歳で亡くなりました。その頃には甲状腺がんのリンパ節転移はゴルフボールくらいに成長していました。
母を在宅で看取った父は、「お母ちゃんの最期は良かった。私も家で死にたいものだね」と常々言っていましたので、ひとり暮らしではあったのですが皆で実家に通って交代で父の看病をしました。

▲ゴルフボールほどにもなった甲状腺がんリンパ節転移。実家にて。

上の写真は、2ヶ月間の在宅ホスピス時に写したものです。この写真では、ゴルフボールほどにもなった甲状腺がんリンパ節転移がはっきり分かります。
それが、父の亡くなった後、身体を整えようとしたときには、ほとんど消えて無くなっていたのです。

最後の2週間ばかり、父はもう物を食べることができなくなっていました。水や氷しか受け付けなくなっていたのですが、在宅ホスピス専門医と相談の上、栄養剤の点滴や注射はせずに自然に痩せて枯れていくのを見守っていました。すると、がんも、まるで「兵糧攻め」に遭ったかのように撤退し始めたのです。
本当に不思議な体験でした。
患者はもう食べられないのに、最後まで強制的に栄養を補給し、がんに餌を与え続けるより、命の炎がひとりでに消えていくように衰弱して亡くなっていく方が、本人にとっては楽なことではないか、と確信した出来事でした。

(おわり)
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